ha ha ha 考える歯

「病院を思う」 栄久庵 憲司さん(GKデザイン機構会長)

 七十八歳の今日に至るまで、何回も数ヶ月単位の入退院を繰り返した。
私は現役の小さな会社の経営者だから、考えることはいっぱいあるが、長期入院していると、魂が溶けて本当の病人になってしまうのが恐ろしい。
見舞いに来る社員がいろいろなできごとを教えてくれるが、社員は決して病室には長居はできない。
本やテレビも無聊を慰める方法とはいえ、長続きはしない。
恐ろしい無聊感が私を襲う。
では、どうしたらよいのだろうか。思うに自然に生きている生物には病気はない。
自然の中で生まれ、自然の中で死を迎えている。
町の中で生きているスズメやカラスですらそうである。
動物園で死を迎えさせるのは人間のエゴであり、病院と比較してあまり 変わらない。
彼らには退屈はあるのだろうか。

このように考えると、いわゆる病院・病院したものが全国的になっているのが問題だが、なぜか病院とは そういうものかなと思ってしまう。
監獄のように人を閉じ込めるのではなく、自然のままに放っておく方法はないものか。
ジャングルや森をテントかドームで覆ってその中にベッドを置けないものだろうか。

私は若い頃、南アフリカで一時を過ごした。
ジャングルの中のテントに泊まり、イギリス風のサービスを受けたことを 憶えている。
そこは夜カバの通り道であるとあとで聞かされ驚いたことがあった。
大きな糞が側にあったからだ。
病院もそういうものと考えられないだろうか。
医療も看護の仕方もそれに沿って考えればいい。
野生の動物であれば最後まで生きるために死ぬるという緊張感があるというものだ。

釈迦の臨終のときの話だが、行脚中にお腹をこわして横に臥したという。
周りの弟子や野生の動物に囲まれ、 あまつさえ沙羅双樹の花も泣いて白く色が変わったという。
医学の発達しない大昔の話ではあるが、いかにも理想的な姿である。
息をひきとるまで弟子たちに説教していたのだから、私のいう退屈はなかったであろう。
これは建築家や環境デザイナーの問題ではなく、 人間のあり方の問題である。

かつて友人の終焉に臨んだことがあった。
俗にいうホスピスであった。
病室はリビングルームのようであり、全てが日常的であった。
状態が状態だけに彼の妻も起居をともにしていた。
彼は間近に死を迎えるとはいいながらも目は輝いていた。
病院の壁には十字架がかかっていた。
この期に臨んで手でつかみやすいかたちをしていた。
すがりやすいかたちをしていたのである。

夢のような話をしてしまったが、現代の考えを切り替えるのは難しい。
ただ、いまいえることは自然の動物としての人間が常に自然に生きていることを実感することだ。
社会との関係、家族、友人との関係、自然との関係をいかに保つかということだ。
病人や老人にとって、孤独ということは一番禁物だ。
病は死の前過程の大きな事件の一つである。
人は一人で生まれ、一人で死ぬことは 当たり前のこととは思うが、それでも人生の流れを感じながら、一人になるという境地を味わうべきだろう。
悩み深い人間だが、死は人類のとおらなければならないとてつもないプロセスなのである。